2014年06月02日

早稲田大学校外生制度と高田早苗の生涯学習思想


 高田早苗(たかたさなえ)(1860-1938年)は、政治学者、教育家、文部大臣で、早稲田大学の初代学長である。大隈重信を支え、早稲田大学の基礎を築いた。高田早苗の業績は膨大であるが、そのうち重要なものとして生涯学習と校外生制度(通信教育)の創設がある。高田は早稲田大学の経営のみならず文部大臣を務めており、日本の高等教育に与えた影響は大きい。
 そこで本稿はその教育理論のうち生涯学習について、一般向けに平易にまとめられた文章とその関連資料から高田の基本的な思想について再考してみたい。

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高田早苗

早稲田大学の校外生制度

 早稲田大学には高田の考案による独特の「校外生制度」があった。1886(明治19)年に発足し、戦後の1949年に大学が新制度となるまで継続された。

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早稲田講義録の表紙の例

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早稲田大学校外生之証

 数多くの教員の参加で講義録は作成された。

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講義録改造に関する講師会

 早稲田大学出版部がその通信教材「早稲田講義録」を編集した。

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出版部事務室の一部


100万人を超える学生が履修した。津田左右吉、田中角栄も早稲田大学校外生として学んだ。履修者一人ひとりの情報は大切にカードで保管された。

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カード整理室の一部

講義録では履修者の声を紹介して、投稿用紙での対話や相互学習を励行をし、「読者倶楽部」が運営され た。毎号の送付を束ねるための専用のブックカバーや本棚を用意し、各地での履修生の自学自習を励ました。

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講義録に掲載された校外生への案内

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ブックカバー

高田早苗の教育思想

 高田の生涯学習教育思想の大要は、早稲田講義録に掲載された大正13年4月の「早稲田の特色と学生の心得」という平易な文章から理解することができる。早稲田大学高等学院においての高田の演説の概要である。
 その内容は高田の学びに対する基本的な考え方が凝縮されており、校外生も例外なく、否、校外生にこそ重要な内容を含んでいた。それゆえ、編集部はその概要を8ページにわたり載せている。掲載した理由として「新たに早稲田学園の人となられた校外生諸君の為めにも参考となる所が極めて多いと信じますから、茲(ここ)に之を紹介することにいたしました。」とあえて注を添えている。
 以下に生涯学習や校外生制度にとって重要と思われる箇所を整理、引用して、高田の考え方を確認しておきたい。

@教養
 教育と云ふものは修養教育リベラル・エヂユケーション固より大切である。

A受験勉強の弊害
 予備教育も大切でない譯ではない、併しどちらかと云へば、予備教育と云ふ考であれば、同じ教育が半分死んでしまふと言って宜かろう。殊に是が受験教育となると、全く死教育である。凡そ世の中に於て何が詰らぬといっても、受験教育程詰らぬものはない。受験教育を盛にすると国が衰へる。(中略)

 この文章のくだりの後に、中国の科挙制度について述べ、鋳型の中に教育が嵌ってしまい、どうしても死教育になって活教育にはならない、と述べている。

B学を楽しむ
 今日学問をするに付いて学問に対する心掛け、同じ書物を見るに付いても受験の為めに見る、準備教育の材料として見ると云ふのと、本其物から修養を受け知識を吸込み而して趣味を養ふと云ふ心持で見るとは、非常に差のあると云ふことは、諸君がよく御考えにならん事を希望する。

C子供の気分の保存
 第一諸君の気分が子供的気分であると云ふ事を一の特色にしたい。子供的気分の保存と云ふことが学院の特色であって欲しい。大人などには何時でもなれる、なりたくなくても老人に迄なれる。何時迄も何時までも子供の気分で居て欲しい。亜米利加人などを御覧なさい。大学を卒業して三十年四十年経った老人が大学へ来て子どものやうな気分になって、オールド・ボーイとなって学生と共に仲宜く遊ぶ。さうして若返りをすると云ふ話を聞いて居るが、況んやそこに学ぶ者は、之はボーイでなければならぬ。子供気分を失って早熟な、殊に貧弱な、色の青い神経質の人間が出来上がることは高等学院の特色としたくないと思ふ。子供気分の保存、是は大切なことである。それには書物ばかり見て居っては駄目だ。

D読書
 朝から晩まで寝ても起きても書物に獅噛み付いて居るなどは知恵のない骨頂だ。さう云ふことをやるから、本を読むと云ふことが結局苦痛になる。苦痛になるから卒業すると本を読まなくなる。大学を卒業した以上、世の中へ出たら丸で其先きは本と縁を切ってしまふ。是が今の日本の大體の状態である。それで西洋と競争しやうなどとは実に間違ひの甚だしきものである。

E生涯学習
 ライフ・ロング・スタデーでなければならぬ。ライフ・ロング・スタデーをやる。趣味を以て書物を読む。此趣味の保存と云ふことを心がけなければならぬ。趣味の保存と云ふこでおれば無理をして諸君は書物を読むに及ばない。

F集中して読む
 イヤイヤ十時間読むよりも好んで熱心に一時間読む方がどの位効果があるか分からないから、決して書物にばかり浸って居る必要はない。

Gスポーツで気分を養う
 一番宜い気分はスポーツマンシップの気分であらう。此気分を養ふ事である。スポーツをお遣りなさい。又身體が弱くてスポーツが困るなら、音楽でも何でも宜しい。楽しみをなさい、そして愉快に御暮しなさい。さうして時間を限って熱心に勉強なさい。子供気分は失はないやうに高等学院に居る間は勿論のこと、大学を卒業しても子供気分を失はないやうになさい。之を第一の特色となさいと私は諸君に勧告する。

H「自治公民立憲国民」の素養
 もう一つは此高等学院に於て自治公民立憲国民たる素養を拵へなけれならなぬ。諸君は個人と云ふ関係のみの人でない。ファミリーの一員たることは勿論だが、同時に国家の国民、世界の市民である。是れだけは常に六尺の體躯にちゃんと付いて居る資格である。インデビヂユアル即ち個人、家族の一員、国家の一国民、世界の一市民、是れ丈けの資格は離れないものである。(中略)

 この後、皇室制度の尊重について触れている。

I世界市民の自覚
 夫が為には諸君は此の学校に居る内に、自治公民立憲国民たる修養を今から積まなければならぬ。諸君は世界の一市民としても大に盡さなければならぬ。之は専門などで違うものではない。俺は機械の方をやるのだから公民でなくても宜かろう、そんな馬鹿なことはない、これはどの科にも通じて居ることである。

J自修的学問
 それからもう一つは是は学問の仕方に付いて又諸君の修養の方針としてである。私は常にこの事を繰返すが、学問はどうしても自修的でなければならぬ。受身の学問は役に立たぬ。教師の講釈を聞いて書物に假名(ふりがな)を付けて帰る学問は、諸君が何時迄やって居ても何にもならない。自分で字引を引いて首を捻って考へて読んで、果して自分の読方が正しくないかを先生方に問合せると云ふことから進んで行く自修的学問でなければ、何年諸君が学問をしても其学問は何にも役に立たない。学問はどうしても自修的でなければ学んだものが消化しない。肉體の食物・・・是も屡々(しばしば)云ふことであるが・・・精神的食物も同様である。食ふと云ふことが目的ではない。食った物が消化されて血となり肉となり骨となって此身體が出来上がり、身體が丈夫になると云ふことが必要である。精神上の食物だってさうで、唯詰込むが宜いのではない。頭の中へ入れたものが消化されて血となり肉となって知らず識らずの間に諸君の栄養になる、知識的教養になると云ふことでなければ学問をしても何もならぬ。それはどう云ふことでなければ学問をしても何にもならぬ。それはどう云ふ方法で其目的が達せられるか、他なし、自修と云ふ事の二字を実行する事である。此自修ち云ふことを忘れては、諸君が二年の高等学院に居ても三年の高等学院に居ても何の役にも立たない。中学の一年から英語の稽古して大学を卒業しても実は英文が読めない。日本の書物で読んで英書の読めるやうな顔をする位な人間にしかなれない。そんなことで一體学校へ這入る丈けの効果があるが。斯う言いたくなるのでありますから、此自修と云ふことは決して忘れないやうにしたい。

K自敬的精神
 それは学問のことだが、学問ばかりではない、人間と云ふものは品性を重んじなければならぬ。此品性を重んずるにはどう云ふことをモットーとして宜しいかと云へば自敬である。自ら敬ふことである。此身體は苟も天地の間に生まれたものではない。苟且(こうしょ)にも生れたものではない。尤も其天分に依ってミッションに大小はあるか知れないが、兎に角生れた以上は盡(つく)す可き天職を持って居るのだ、ミッションがあるのだ。其ミッションを完うすべき我であるから、我自から我を軽んじては相成らぬ。身體髪膚之を父母に受く、敢て毀傷(きしょう)せざるは孝の始なりと孝経にあるが、それは肉體的のことで、蚤にも食はせないといふのであらうが、肉體的の意味ばかりではない、精神的にもさうである、自分の身體を自分で重んずる。何が故に重んずるか果すべき使命があるから重んずるのだ。是が自敬と云ふことである。慶應義塾の福澤翁が自尊と言ったのも詰り同じでせうが、自尊と云ふ言葉は少し薬が強過ぎる感がある。何となれば御釈迦様は天上天下唯我独尊と言はれた。之は御釈迦様だから宜いが、御釈迦様ならざる者が下手にこんな事を考へると間違ひが起る。漫りに自ら尊大にする。一體尊大と云ふ字が面白くない。漫りに自ら尊大にする。其意味の自尊ではいけない。福澤翁は其意味で使ったのではあるまいが、どうも間違ひが起こり易い。むしろ穩富(おんとう)に自敬といふ文字をモットーとしたら宜からう。自修自敬、之を高等学院の諸君の心掛けとし之を特色としたいと思ふ。

まとめ
 以上、高田早苗の生涯教育思想を見てきた。その思想は、「自修自敬」の言葉に集約することができる。それを大隈重信、小野梓と同じく模範国民、すなわち、個人として、家族の一員として、国家の一国民として、世界の一市民として、その分離しがたい自分という統合のミッションを果たすために、生涯自分のペースで学問に親しむことを説いた。受験勉強が勉強ではない。それらの思いからできたものが早稲田大学の校外生制度であったといえる。明治・大正の時代と今日の大学は大きく環境は変わっているが、時代の風雪を耐えてなおかつ高田早苗の教育思想やその教訓から今日も学ぶことが多いのではないだろうか。


(脚注)
写真は「早稲田大学 早稲田講義録」巻頭より複写転載
posted by 早稲田大学早田宰研究室 at 17:40| 日記