2014年04月30日

ルネ・デュボスの社会デザイン

 社会デザイン(Social Design)という用語を、今日的な意味で最初に使ったのは、ルネ・デュボス
(René Dubos; 1901-1982年)である。フランス生まれのアメリカ人の微生物学者で、環境保護や人間の未来を論じた。

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ルネ・デュボス

 彼の "Think globally, act locally"という有名なスローガンを知らない者はいないだろう。デュボスが国連人間環境会議のアドバイザーを務めた1972年から1978年に登場し、ひんぱんに使われた言葉である。生物学研究を出発点に科学・技術の人類の幸福へ与える影響について環境的・社会的要因の分析をおこなった。人間の営み、科学技術、物質、地球の気候・風土・文化の間のよりよい関係構築について論じ、地球規模の問題は、社会的進化によって人間の行動を再考することが可能になり、地域の状況や選択肢が調整され、生態学的にバランスの取れた環境を促進できると考えた。

 デュボスは、人間と地球が必要とする科学知を生み出するための社会状況をつくる方法を社会デザインと呼んだ。1969年11月14日、コロンビア大学のバーナード・カレッジの新しい科学棟で演説を行った。そのときに使われた言葉が、「社会デザイン」である。その概要は『サイエンス』誌に社説として掲載された。
 以下その全文の和訳である。


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科学のための社会デザイン
A Social Design for Science

ルネ・デュボス
René Dubos

 過去2世紀の間に産業社会はすべての物質をますます生産し、人々をますます増やし続けることができるように思われている。19世紀と20世紀に特徴的な経済の量的拡大にもかかわらず、それらはすぐに終わりが来るであろう。そして我々はまずもって数十年以内に、科学・技術の取り組みに新たな目標を再設定しなければならなくなるであろう。
 人造か自然かを問わず、すべての生態系システムは、長期的には平衡状態を達成し、エネルギーや物質の両方に関して自己再生できるようにならなければならない。高度先進国の生態系は、数十年の間不均衡の状態にあった。さらに、生態系の不安定性は、その傾向が続けば災害は避けられないくらいに加速度的に増加している。ほぼ閉鎖系のシステムの開発を遅らせる余裕はもはやない。そこでは物質が廃棄される代わりに、リサイクルされることにより、システム全体でその価値を保持する。
 人口と技術の成長における生態的な制約は新たな人類の社会・経済システムの開発を必然的に求めることになる。それは今日私たちが生きているものとは異なる別ものである。生き残るためには、人類は定常状態と呼ばれるものを開発する必要がある。定常状態の公式は、これまでの西洋文明を支配している無限の量的成長という哲学とは大きく異なるため、それは広範な公的警告を引き起こす可能性がある。
 多くの人々は世界がその最後をむかえる停滞期に入りつつあると誤認している。しかし、定常状態は創造的な変化に対応していくのである。
 実際のところ、閉鎖系システム内の変化は、知的(で特に科学的な)可能性を提供する。過去世紀の間にもたらされた成長によって提供されてきたものより、おそらくはるかに挑戦的である。定常状態は、最終的には科学的なルネッサンスを生成するかもしれない。しかし、これは科学的に確立するための意識的で困難な努力なしには起こらない。
 これまでのところ、大学や研究機関は、今世紀が終わる前に、世界が急速に直面するであろう問題に対して超然とした姿勢のままである。しかし、世論の圧力はすぐにもはや超然としてはいられないことを科学者に強要するであろう。
 科学者たちは、自分の思考やスキルを、自分が関心のある問題ではなく、より大きな社会的意義の問題に向けて再度方向づける必要がある。重点分野での迅速かつ深遠なシフトが、理論科学や技術に生じるであろう。新たな科学の概念は、科学の内部ロジックの産物として、または生物界の変異に類似した偶発的な発見のいずれかから産出されてくる。知識の進歩のこの局面は、科学史の中のことと呼ばれるのかもしれない。
 新しい科学のコンセプトの開発のためには、とくにそれを広く社会にとって意味のある形に変換するためには、科学の外の歴史も同様に重要である。科学は社会的環境(the social milieu)によって深く影響される。この意味で、多くの発見は、科学者が社会の一員として身をまかせて状況の生成を機能させた結果である。近未来の世界に確固として横たわるこの制約によって、思考は、成長と科学技術の進歩における支配的なニーズに関連した単なる事実の蓄積ではなく、デザインと関係づけることが求められるようになるのである。

(訳:早田 宰)

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 デュボスは、人間と地球の未来のために重要な役割を果たす科学技術が、科学者の研究室の中で生まれるのではなく、社会状況の中から生み出されることを深く洞察していた。そのためのソーシャル・ミリュー、すなわち社会環境づくりが、社会デザインであるとした。そして科学者もその状況をつくるために社会参画し、行動すべきことを強調したのである。


脚注:
René Dubos(1969), A Social Design for Science, SCIENCE, Vol.166, No.3907, p.823
posted by 早稲田大学早田宰研究室 at 22:51| 日記

2014年04月13日

「共存同衆」について


はじめに

 小野梓らが中心となった政治的啓蒙言論結社「共存同衆(きょうそんどうしゅう)」については必ずしも多く知られていない。小野の政治・教育思想については多くの人が知るところであるが、その実践活動であった「共存同衆」は関東大震災で資料を喪失したために今日その功績を知ることが難しいことが惜しまれる。いくつかの断片的な研究があるが、澤大洋先生が1995年に丁寧にまとめられている。本稿では、澤大洋「共存同衆の生成」(1995)青山社をもとにその論考の中から個人的に重要と思った箇所を引用し、意義を再確認したい。


1.「共存同衆」とは

 1874年に、小野梓らによって設立された政治的啓蒙言論結社で、当時は森有礼らの「明六社」と双璧であった。明六社は幕末の開成所の洋学者が中心であるのに対し、共存同衆は小野梓ら欧米への留学生らが中心となった。明六社は明六雑誌を休刊し活動を休止するが、共存同衆は社交倶楽部として存続していく。他団体では板垣退助らの「立志社」、福沢諭吉らの「三田演説会」などがあった。
 設立者は7名であった。万里小路通房、岩崎小二郎、尾崎三良、大内青巒、広瀬進一、赤城連城、小野梓*1)の7名である。共存同衆とは小野梓の命名であり、活動や議論の中心となったのは、小野梓、馬場辰猪、金子堅太郎らである。立場は小野が穏健な中道、馬場がやや左派寄り、金子がやや右派(保守)寄りで、まさに共存していた。


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小野 梓

2.活動の狙い

「共存同衆」は、相互扶助のボランタリー組織で、以下の6つの役割をもつ。

@政治 (政府への提言、意見具申)
A学術・教育 (私立学校の設立、「習演会」(演説講習会)の開催)
B言論 (「講談会」での演説)
C出版 (「共存雑誌(きょうそんざっし)」の発行・「共存文庫」の開設)
D集会・親睦 (共存集同館の建設)
Eその他広汎な社会文化的活動

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共存雑誌

 @〜Eに広がる包括的なもので、あくまで学術団体であることを基本とした明六社と対比的である。


3.活動ルール−共存同衆条例

 1874年に共存同衆の活動のルールである共存同衆条例が明文化されている。それは諸言、本文、付随する臨席心得から成る。

1)諸言
 前文では、諸言と称して活動の目的について述べている。以下に原文を抜粋して引用する(以下カタカナをひらがなへ変換)。

「今の世を憂ひ国を愛する人、孰(たれ)か法内に立ち庶民協和し威外に輝て万国侮りを絶つことを欲せさる者あらんや(中略)我邦の庶民久しく抑圧の遺風に慣れ、猶ほ封建の余弊を存し(中略)抑(そもそも)人民交際の厚きは則国家を維持するの大本なり(中略)風(かぜ)を移し、俗を易(かえ)る、必漸を以てすべし。故に此者同志盍簪(こうしん)一小社を立て、目して共存同衆と云ひ、務めて交際を厚にし、知識を恢弘(かいこう)にし、苟(いやしく)も事、人間共存の道に関る者、論すへきときは則論し、議すへき時は則論し、救ふへきは則救ひ、助けへきは則ち助け、以て人民の権利を明らかにし、以て人民の義務を励まし、他日大に為す有るの漸を開んと欲す。希(ねがわ)くは海内の諸君子能く此意を諒し、若し採る可しとせは則来り助け、所謂人国に於るの責任を尽すことあらんことを。是を共存同衆条例の諸言とす。」

 その主張するところは、欧米列強への対峙、国家独立、近代化達成、藩閥政府と氏族民権の協調、旧態然とした思考習慣からの脱却である。そのために「共存同衆」という団体を設立して、市民のつながりを深め、市民の自覚を広げ、論じるべきものはすぐに論じ、救済すべきものはすぐに救済し、補助すべきものはすぐに補助し、それによって市民の権利・義務の意識を高めて、将来的に活動を大きくしてゆくこと、それによって国内に趣旨が広がり、賛同者が支援し、地域における責任を尽くしていこうとすること、これが趣旨である。

2)共存同衆条例の本文
 その活動ルールを全28条に明文化して定めている。「第一条 一、本衆を同盟し人間共存の道を勧めんとす。」からはじまる。全条のおおむねの内容を要約すると、人間共存の道を勧める、人間共存の事を弁論の中心とする、建議があるときは前回に概要を伝え次回の許可を得る、月に2回開催する、10日と25日を常会とする、3時に集まり、30分後に会合を始める、会合は2時間とする(会頭と呼ばれる議長が伸縮する)、重要な議決は2/3とする。議論内容を出版等公開するときには2/3の同意を得る。議長は毎回無記名投票で選ぶ。新会員は一人の推薦と2/3の同意が必要。参加費は毎回50銭とする。東京に不在者は半額。同衆となると毎回案内が送付され、発言の機会を得ることができる。友人一人を連れてくることができる。ただし幹事に紹介しなければならない。5名が要望すると臨時会を開催できる。女性は1人の推薦と2/3の同意で参加できる(女子を差別するのではなく、会が乱れるのを防ぐため)、女子を同伴する場合は、一同の賛同を得る。庶務をおこなう幹事を2名おく。毎月のはじめに幹事は会計を報告する。退会するときには幹事に伝える。この条例を守る義務、などである。

3)臨席心得
 活動の規範として9項をあげている。共存同衆は、大声は禁止、議長に対して発言する(個々で談話しない)、起立して発言する、離席は便所以外は禁じる、雑談は禁止、喫煙は禁止、会議をはじめるときには議長に揖(会釈)して着席する、やむをえず退席する必要のある時はあらかじめ議長に伝える、出席者は袴または洋服とする、である。
 このように共存同衆は西欧の制度・思想・文物を研究し会員相互の思想の修養を図る知識人クラブ的な場をつくり、そして研究成果を積極的社会に還元し、政治・社会・文化の改革をめざして啓蒙的な実践活動にかかわろうとするものであった*2)。


4.活動拠点となった「共存集同館」

 共存同衆の活動場所である共存集同館は、1877年4月に丸屋町(現在の中央区銀座8-5-8)に建設された。2階建の銀座煉瓦街にあり、街路樹とガス灯に面したジョージア様式のモダンな西洋館であった。岩崎小次郎が都市計画で東京府から払い下げられたもので、名義は岩崎で、所有権は共存同衆の共有であった。図書館は一般にも開放され、1879年共存同衆文庫が新たに開設されるまで活動した。さらに建物は1923年関東大震災で崩壊するまで存続した。

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共存集同館のあった銀座煉瓦街の界隈


5.共存同衆の面々たち

 同衆として参加や寄稿した中には、犬養毅、井上哲次郎、岩崎弥之助、尾崎行雄、菊池大麓、島地黙雷、島田三郎、高橋是清、田口卯吉、谷干城、鳩山和夫、武者小路実世(実篤の父)などの名前がみえる。幅広い思想の拠り所となるが主に立憲改進党や自由党の母体として機能していくことになる。
 発足しばらく1877年の41名の内訳をみる。年齢平均は31.3歳で、出身地は、高知(7名)、京都(7名)が多いが、続いて、山口(4名)、佐賀(3名)、宮崎(2名)、徳島(2名)、東京(2名)、その他各地から多様であった。階層は、氏族17名(43.6)、平民8名(20.5%)、華族5名(12.8%)であった。1877年には35名になっている。留学先は英、ついで米が多かった。


6.論じられた内容

1)テーマ
 共存雑誌や講談会で論じられた内容は、@法律、A教育、B理財商業、C衛生の4つが主要テーマであり、論調としては、単なる現状の考察や批判に終始せず、具体的提案を伴うところが特徴であった。
 具体的なトピックとしては、議会政治、民法、刑法の整備、条約改正、女性の地位向上、民衆の権利・義務意識の啓蒙、国産品保護育成と振興、政府の安易な国債財政の批判、国内殖産興業、愛国の公心、国民的統一、身分差別批判などであった。論文の寄稿数は小野梓が際立って多い。

2)議論の特徴
 澤(1995)によれば、以下が顕著である*3)。
@小野梓をつうじての英ベンサムの功利主義の影響
A東洋(中国)と日本の伝統思想の影響
B改革派仏教徒の参加
 大内青巒、島地黙雷らが加わったことで単なる西洋かぶれの付け焼刃の議論ではない、空理空論ではない、またキリスト教に染まるのでもない独特な東西古今の文明の調和を現実的に論じたことが特徴といえる。



7.共存同衆の発展の要因

 それが長く続いた理由として、以下があげられる*4)。

<外部的要因>
 @文明開化の時代風潮と要求に適合した
 A政府の容認と市民の共感と支持

<内部的要因>
 @優秀な人材の結集と確保
 A組織の確立(条例など)
 B共存主義の不偏不党の成立
 C自由平等の民主的運営−協調と団結
 D衆員の高邁な理想と奉仕・犠牲精神
 E経営安定
 F良い企画と積極的行動


まとめ 共存同衆の意義

 共存同衆の意義は、「共存の道」のイデオロギーを日本ではじめて公式に宣言し、その思想の普及と実現のための政治的啓蒙活動をおこなったことである。少数精鋭分子の理想に走りすぎる非現実的な急進過激派でもなければ、頑迷な保守主義でもない。常に平民の立場にたち具体的提言をおこない、現実的漸進穏健改革政治をめざす活動であった。石川実(1967)*5)によれば「漸進、調和の思惟様式とその啓蒙活動における『中』道的立場」の追及である。
 共存同衆が現代社会へ示唆することは、澤*6)が整理するとおり、権力、経済及び芸能、娯楽などばかりが称揚される現在の傾向において、学問、思想、社会正義、倫理道徳などの重要性を認め、世の中にその柱をいかに立てるべきかについて真剣に教えていこうとするものである。さらに、純粋な学問や実利のみでない智徳教育及び哲学と思想の再建を考え、実践的に行動していくべきことを堂々と説いている。「共存の道」は、万物の存在にかけて、敵対抗争を調和統合して、積極的に共存共生を図るべきとするものであり、その意志は現代に受け継がれるべき示唆に富むものといえるのではないだろうか。


脚注
*1) 澤大洋「共存同衆の生成」(1995)青山社p.48
*2) 同上 p.69
*3) 同上 p.146
*4) 同上 p.151
*5)石川実(1967),明治の知識人−共存同衆と小野梓−,人文学報24号, p.95-96
*6) 澤前掲書 p.155
タグ:小野梓
posted by 早稲田大学早田宰研究室 at 21:26| 日記

2014年04月12日

社会科学部50周年のロゴマーク

社会科学部50周年のロゴマークです。

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posted by 早稲田大学早田宰研究室 at 17:41| 日記